Title  拾遺愚草  Author  藤原 定家  Subtitle  下部類歌  Description ----  西行上人みもすその歌合と申して判ずべきよし  申しゝをいふかひなくわかかりし時にて度々か  へさひ申しゝをあながちに申しをしふるゆゑ侍  りしかばかきつけてつかはすとて 山水のふかゝれとてもかきやらず君がちぎりを結ぶばかりぞ  かへし 上人 結びながす末をこゝろにたゝふれば深く見ゆるを山がはの水  又 神路山まつのこずゑにかゝる藤の花のさかえを思ひこそやれ  又かへし 神路山君がこゝろの色を見むしたばのふぢにはなしひらけば   と申しおくり侍りしころ少將になりてあくる年思   ふゆゑありてのぞみ申さゞりし四位して侍りき ----  建久元年二月十六日西行上人身まかりにけるを  はりみだれざりけるよし聞きて三位中將のもと  へ 望月のころはたがはぬ空なれど消えけむ雲のゆくへかなしな   上人先年詠ずといふ                  きさらぎ    願くば花の下にて春しなむその二月の望月の    頃 今年十六日望月也  かへし むらさきの色と聞くにぞ慰むる消えけむくもは悲しけれども ----  ふじわら-のていか ふぢはら— 【藤原定家】 〔名は「さだいえ」とも〕(1162-1241) 平安末期・鎌倉初期の歌人・歌学者。俊成の子。京極中納言と称さる。法号、明静(みようじよう)。「新古今和歌集」(共撰)、「新勅撰和歌集」を撰した。華麗妖艶な歌風で新古今調を代表し、一時代を画した。歌論書「近代秀歌」「毎月抄」、撰集「小倉百人一首」、日記「明月記」、家集「拾遺愚草」など。また、「顕註密勘」など古典の校勘にも功績を残し、「松浦宮物語」の作者ともいわれる。「千載和歌集」以下の勅撰集に四三九首入集。その書は「定家流」と呼ばれ、尊重された。  しゅういぐそう しふゐぐさう 【拾遺愚草】 藤原定家の自撰家集。四巻。1216年、正編三巻成立、のち、員外一巻増補。約三八〇〇首の和歌を収める。以後の私家集編纂の手本となった。六家集の一。〔「拾遺」は侍従の唐名で、定家の官職名〕 大辞林 第二版 藤原定家 ふじわらのさだいえ 1162‐1241 (応保 2‐仁治 2)  中世初期の歌人。 〈ていか〉ともよばれる。 父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経 (寂超) の妻となり隆信を生み, のち俊成の妻となった。 兄は 10 人以上あったが成家のほかはすべて出家, 姉も10 人以上あり妹が 1 人あった。  定家は 14 歳のとき赤斑瘡,16 歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患, 神経症的異常に悩まされた。 19 歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え, 独特の妖艶美を獲得した。 この美に拠って 86 年 (文治 2) 和歌革命を行い (《二見浦百首》), 天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗 (ひぼう) を受け, 14 年間苦境にあえいだ。 1200 年 (正治 2) 後鳥羽院の《正治百首》の列に加えられて一躍宮廷歌壇首位に抜禽⊿され, その革命的歌風は見る間に全歌壇を圧倒する新風となった。 翌 01 年 (建仁 1) 10 月,後鳥羽院の寵により熊野御幸の列に加えられ, 同年 11 月には《新古今和歌集》の斤⊿者を命ぜられた。 その斤⊿集の仕事と夜を日につぐ歌会,歌合に彼は虚弱の身に鞭うって活躍した。 そのころから後鳥羽院との調和が破れ, 《新古今集》の竟宴にも出席しなかった。 しかし謹直精励な彼はその後も《新古今集》の切継ぎの仕事に最後まで全力を尽くした。 このころから後鳥羽院の関心は関東討伐に向かい和歌を離れたので, 歌壇は順徳院の手に移った。 定家もその新歌壇の人となり後鳥羽院との関係はいよいよ悪化, 07 年 (承元 1) の《最勝四天王院障子和歌》の斤⊿定によって両者の関係は最後的に決裂し, ついに 20 年 (承久 2) 後鳥羽院の勅勘を受けるに至った。  一方,鎌倉の源実朝との関係はしだいに親密となり, 1209 年 (承元 3) には定家から実朝に《近代秀歌》を贈り, 13 年 (建保 1) には相伝の《万葉集》を献じなどした。 承久の乱後の京都は定家の主家九条家, 妻の実家西園寺家の支配に移り定家は急に政界・歌界に権威をもつようになると同時に, 嫡子為家の妻として関東第一の富強宇都宮家の女をめとったので家計もきわめて富裕となり, 一条京極に豪壮な邸宅を営むに至った。 しかし定家の関心は和歌から離れ主として古典の書写に向かった。 写書のおもなものは《秋篠月清集》《古今集》《新古今集》《金槐集》《久安百首》《後斤⊿集》《源氏物語》《伊勢物語》《拾遺集》《長秋詠藻》《和漢朗詠集》《大和物語》《千載集》《古来風体抄》《土佐日記》《俊頼髄脳》《和泉式部集》《みつの浜松》《夜半のねざめ》《更級日記》など。 また定家の歌学書としては《近代秀歌》《毎月抄》《秀歌体大略》《秀歌大体》《定家十体》《顕蔦⊿密勘》《三代集之間事》《僻案抄》《定家縁⊿長歌短歌之説》《定家物語》《定家縁⊿相語》などがある。 自己の和歌を集めたものに《拾遺愚草》《百番自歌合》があり, 一般の歌を集めたものに《二四代 (にしだい)集》《小倉百人一首》《八代集秀逸》があり, 自作の物語に《松浦宮 (まつらのみや) 物語》がある。  父俊成から御子左家(みこひだりけ) を継いだ定家の歌風は, 初めは俊成の幽玄の風であった。 和歌革新後は妖艶風に変化したが世間ではやはり幽玄といった。 だから幽玄には〈さびし〉と艶とを中心とした俊成風の幽玄と, 妖艶を中心とした定家風の幽玄とがあるわけである。 しかし中世では,もっぱら定家の風を幽玄といった。 定家は本来強剛な性格をもち,それが病的神経に強められて反抗好争の人となり, 1185 年 (文治 1) 24 歳の年には少将源雅行を殿上でなげうって除籍され, 46 歳の年には《最勝四天王院障子和歌》の斤⊿歌で後鳥羽院をあからさまに悪口誹謗 (ひぼう) して勅勘の因をつくった。 定家の代表歌として次の 2 首をあげる。 〈見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮〉と〈秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の杜の露のした草〉とである。 前者は 1186 年 (文治 2) 和歌革命として詠んだ《二見浦百首》の歌, 後者は 1207 年 (承元 1) 《最勝四天王院障子和歌》の歌で後鳥羽院勅勘の因となった問題の歌である。  意志があくまで強く老後多病の身であれほど多くの書写を行い, 《摩訶止観》の書写には 19 ヵ月の間毎日休まず書写した。 名誉心が強く官位の昇進には激しく焦心し, 自己の健康には異常に注意し咳が一つ出ても日記に記すほどであった。 恩に感じては一身を顧みず,主家の不幸にあっては自分たち夫妻も 2 人の娘もすべて出家してその恩に殉じた。 定家が 19 歳から死の直前まで書き継いだ漢文日記が《明月記》である。 中世には定家は神のごとく尊敬され, 正徹のごときは〈定家をなみせん輩は冥加も有るべからず罰をかうむるべき事也〉 (《正徹物語》) とまでいっている。 石田 吉貞 『ネットで百科@Home』  End  底本::   著名:  山家和歌集・拾遺愚草・金槐和歌集   著者:  藤原 定家   編輯:  塚本 哲三   発行者: 三浦 理   発行所: 有朋堂書店   発行:  大正15年11月23日  入力::   入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   入力日: 2000年09月16日  校正::   校正者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   校正日: 2000年10月21日 $Id: jyuigusou.txt,v 1.6 2020/01/06 03:45:05 saigyo Exp $