中将実方の墓 写真情報

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 みちのくににまかりたりけるに、野の中につねよりもとおぼしきつかのみえけるを、
 人にとひければ、中将のみはかと申すはこれがことなりと申しければ、中将とは誰が
 ことぞと、又とひければ、さねかたの御事なりと申しける、いとかなしかりけり、さ
 らぬだにものあはれにおぼえけるに、しもがれのすすきほのぼの見えわたりて、のち
 にかたらんもことばなきやうにおぼえて
くちもせぬそのなばかりをとどめ置きてかれののすすき形見にぞみる
               (新編国歌大観 第三巻 私歌集編Ⅰ 歌集 より)

撮影日:  2005/08/23
撮影場所: 宮城県名取市愛島塩手
撮影者:  新渡戸 広明
撮影機:  FUJIFILM Q1 DIGITAL 4.0 Ir
001 「中将実方の墓 全景」




「西行歌碑」002 「西行歌碑」


    西行法師の歌 従一位侯爵久我通久書[落款]
        朽もせぬ其名はかりを留置て
かたみの薄
        かれ野のすゝきかたみにそ見る
        明治四十年十一月 荘司益吉立石

                      【新渡戸広明翻刻。乞誤謬指摘。】

ちなみに右後方に見えるのが中将実方の墓。らしい。


「説明板」003 「説明板」


藤原実方朝臣(実方中将)の墓
      【中古三十六歌仙?】
藤原実方朝臣は中世三十大歌仙の一人で一條天皇につかえ、左近衛中将
であったが藤原行成卿(書道の大家、三蹟の一人)との争いがもとで長徳元年(九
九五)陸奥守に左遷され、はるばるとみちのくに下った、長徳四年(九九八)冬
笠島道祖神の前を乗り打ちして奇禍にあい、それがもとで、この地に薨じ
た、その命日は、里人によって「国司祭」とよばれたという。
実方は、能因、西行にさきがけて、いわばみちのく歌枕散歩に先鞭をつけた人
というべきであろう。星移り年変って、西行がみちのくを訪れた時、野の中に
立つ由緒ありげな塚をみて、これが実方の墓と知った彼は、折から霜枯れ
のすすきに心をよせ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき
形見にぞみる」の一首を残した。実方、西行にゆかりのあるこの地は芭蕉の詩情
と遊心とをかきたてる憧憬の地であったにちがいなかったと思はれる、しかし
芭蕉は遂にその願いを断念せざるを得なかった。「笠島はいづこさ月のぬ
かり道」の一句は彼の万斛の思いをこめた絶唱である。
芭蕉の門人天野桃隣は先師の心をくんでか元禄九年(一六九六)はるばる
とこの地に杖をひいたが、実方の墓はさらに風雪にあって様子をかえ「五輪(塔)折
崩て名のみばかり」であったと、その荒廃ぶりを紀行文「陸奥鵆」に書きとどめた。
今はその五輪塔さえ失なわれ、わずかに墳丘をとどめるばかりで、墓の畔り
には、西行の歌を刻んだ標石のほか、実方朝臣の「桜狩り」の歌碑が
あり、また西行の歌にゆかりのある一叢の薄の中に松洞馬年の句碑がある。
                      【新渡戸広明翻刻。乞誤謬指摘。】


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