熱川〜河津写真情報
撮影日: 2004/02/15-16
撮影場所: 静岡県賀茂郡東伊豆町熱川 熱川温泉旅館組合 map
静岡県賀茂郡河津町 河津町観光協会
撮影者: 新渡戸 広明
撮影機: PENTAX Optio330
001 「太田道灌の湯」
002 「故事来歴」
故事来歴
七重八重 花は咲けども 山吹の
みの一つだに なきぞ悲しき
此の熱川温泉は、その昔武将太田道灌が、和歌に因む天城山の卷狩りの折り
湯煙が川面より立ち昇り海へ注ぐ此の濁り川を見い出し、川辺に立ち止まると
猿や猪が集まり、川のほとりに湧き出る、この湯にて、その身の傷を癒す姿を
垣間見て”熱い川”を「熱川」と命名し、自らも卷狩りの疲れを、癒そうと
湯浴みをすると、立ち所に体中に生気漲り、この恵みに吾と我が身と凝った
神の御加護厚き此の地より、江戸城築城のための、築城石切り出しを決意した
江戸城築城の槌音が村人の歌声と共に野山に響き渡り、村人達は皆こぞって
築城石を此の地より切り出し、御石曳きの行列は港へ連なり、数多の船が築城石
を江戸へ運んだと言う、歴史的大偉業がこの地より始まった。(一四五六年)
太田道灌 一四三二年生〜八六年歿
青銅像 堤達男 先生作
注
「故事来歴」の和歌は太田道灌の和歌ではない。以下の逸話を参照のこと。新渡戸
====以下引用
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。
定正上総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を通るに、「山の上より弩(おほゆみ)を射懸けられんや、又潮満ちたらんや計り難し」とて危ぶみける。折ふし夜半の事なり。持資、「いざわれ見来らん」とて馬を馳出し、やがて帰りて、「潮は干たり」といふ。「如何にして知りたるや」と問ふに、遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知るとよめる歌あり。千鳥の声遠く聞えつ」と言ひけり。
又何れの時にや、軍を返す時、これも夜の事なりしに、利根川を渡らんとするに、暗さは暗し浅瀬も知らず。 持資また、「底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたてといふ歌あり。波音荒き所を渡せ」と言ひて事無く渡しけり。
持資後に道灌と称す。
『常山紀談』湯浅常山(江戸時代中期)
====以上引用
====以下引用
【国文研】
後拾遺和歌集/後拾遺和歌集第十九/雑五
1155
小倉の家にすみ侍けるころ、雨のふりける日、みのかる人の侍りけれは、
山ふきの枝をおりてとらせて侍けり、こゝろも得てまかりすきて又の日、
山吹のこゝろもえさりしよしいひにをこせて侍りける返事に、
いひつかはしける
/中務卿兼明親王
なゝへ八重/花はさけとも/山ふきの/みのひとへたに/なきそかなしき
【日文研】
新古今和歌集 異本歌
2004
読人不知
とほくなり/ちかくなるみの/はまちとり/なくねにしほの/みちひをそしる
【国文研】
古今和歌集/古今和歌集巻第十四/恋歌四
0722
/素性法師
そこひなき/淵やはさはく/山川の/浅き瀬にこそ/あた波はたて
====以上引用
003 「太田道灌銅像」
004 「かわづ桜1」
005 「かわづ桜2」
006 「かわづ桜3」
007 「かわづ桜4」
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