東遊記後編 卷之二 三馬屋


規則 17: ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

東遊記後編Link
三馬屋の項を追加。「三馬屋」表記だ。「タッピ」がカタカナだ。「ヲコペ」は「奥戸」で「サイ」は「佐井」であろう。

卷之二
 〇三馬屋
奧州三馬屋は松前渡海の津にて、津輕領外が濱にありて、日本東北の限りなり。むかし
源義經、高館をのがれ、蝦夷へ渡らんと此所迄來り給ひしに、渡るべき順風なかりし
かば、數日逗留し、あまりにたへかねて、所持の觀音の像を海底の岩の上に置て順風を
祈りしに、忽風かはり、恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて、義
經の風祈の觀音といふ。又波打際に大なる岩ありて、馬屋のごとく、穴三ツ竝べり。
是義經の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と稱するなりとぞ。扨此所よ
り松前へ海上十里なり。此三馬屋の西北に當りて、タツピとて突出たる山あり。是より
七里なり。されども松前への渡海は、皆三馬屋より渡るなり。此渡たやすからず、海
中に別に大河のごとく漲り流るゝ潮筋三筋あり。南をタツピの汐といふ。其次を中の汐
と云。北を白神の汐と云。皆幅は纔なれども、其流の急にして汐先の勢五十里に及
べり。晝夜とも常に西北より東南へ落て、さし引往來なく、あだかも海中に三ッの大瀧
をかけたるがごとし。下の方、松前の箱館と南部のヲコペの間の海にては、其汐合して
一筋と成り東へ落るゆゑ、いよ/\急なり。松前三馬屋の前の海底には、大なる巖ある
ゆゑ、其汐三ッにわかるゝといふ。松前へ渡る船は、至極の順風の強時を見合せて、帆を
十分に張り、件の汐の所に至れば、むしろ抔を海中へ抛入て、其ひまに矢を射るごとく横
に乘切る事なりとぞ。少しにても風たゆむ時は、此汐に押落さるゝなり。もし落さるゝ
時は五十里程またゝく間に流れ下りて、大海へ出て、汐の勢少しゆるき所に至りて
船をとゞむ。五十里より前方にて船を留る事は、人力にては及ばずとなり。其汐は初に
もいへるごとく、常に西より東へ落るのみにて、其理解しがたき事なり。かくのごとき
所ゆゑ、我も松前へ渡らんと三馬屋にしばし逗留せしかど、順風なくして得渡らずして
歸りぬ。毎日順風なる事もあり、又二十日三十日も順風なき事もあり。それゆゑに、反
つて此渡海にては昔より難船なしと云。南部の田名部のサイ或はヲコペの邊より、松前
の箱館邊は甚近くして、天氣よければ海を隔てゝ衣類のほしてあるも見ゆると云。南部
のサイ、ヲコペの邊は、三馬屋などよりも大に北東へ出たる地なり。三馬屋より北の方
に藍のごとき山々遙にみゆる。是蝦夷地の山といふ。又田名部のヲコペの邊の山なりと
いふ。其邊實に日本の東北の限なれども、湊にあらざる故、他國の人は名をだにもしら
ず。

 

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東遊記後編 卷之三 北極星


規則 13: 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。

東遊記後編Link  いまのところ、北極星の項のみ
橘南谿の天明四年から六年(1784年~1786年)の旅行記である。渋川春海と伊能忠敬の中間の時代だ。どちらかと言えば伊能忠敬の時代に近い。江戸の北極出地の値三十六度強より、周天365.25分割を使用していると推察する。

東遊記後編
卷之三
 【前略】
 〇北極星
北極星出地の高下によりて、地球の南北を知る事なり。地上にて眞直に二十五里程を
隔つる時は、天にて一度を違ふ故に、北極星の度數を知れば、居ながら國の南北を知り、
又國の寒暖を知る。醫者も國々の氣候をしらざれば、其國の陰陽の變化を盡さず。故に
疾病をも察する事あたはず。扨古人天學に精しき人萬國の度數をしるし置、又日本にて
も諸國の度數詳にしるせるものあり。余も漫遊のついで、猶みづから北極の度數を測
試て、後日の考の一助とせんと、旅中にても用ふべき測量の器を新に工夫し、造り
出して、携へ行、國々にて測り見しに、先越中富山にて見る所、北極星地を出る事三十
六度半強なり。出羽國秋田四十度半なり。奧州津輕碇が關四十一度四分なり。同青森四
十一度七分なり。同三馬屋四十二度二分なり。南部盛岡の四里北に澁民と云所あり、此
所四十度七分なり。殊に三馬屋は日本極北の地なれば、別して丁寧精密に測りて、分厘
を不違所四十二度二分なり。猶南部地の佐井、ヲコペの邊は。其鼻大に北に出たれば、
四十三度にも至るべし。其地に至り得ざれば測らず。誠に津輕地は寒氣甚敷、海濱皆
韃地の砂漠に似たるもむべなり。唐土の北京も四十度程の地なれば、其砂漠も四十二三
度の内外なるべし。また日本にて極南の地は大隅國佐田岬なり。是三十一度弱の所なり。
是を以てみれば、日本も南北十二三度に及ぶ國なれば、小國とも云ふべからず。京都は
皆人のしる如く、三十五度強なり。江戸は三十六度強なり。唐土にても洛陽長安抔三十
五六度の地と云。齊魯三十六七度の所と云。殊に唐土にても、日本にても、中和の所な
り。三十五六度の國は四時の氣候正しくして、人物も聖賢を出し、草木もよく暢茂す。
南に過れば、その氣温暖にして物をとらかし、石までも柔にして、山岳も高からず
穩なり。北に過れば、その氣寒冷にして物を凝らし、水までも氷り、山岳も峨々と聳え
て高し。陰陽薫蒸の鹽梅至極奇妙なるものなり。
【後略】
  著名:  東西遊記 全 ・ 北(窓)瑣談 全
  著者:  橘 南谿
  編輯:  三浦 理
  發行者: 三浦 理
  發行所: 有朋堂書店
  發行日: 大正二年八月五日 初版發行
       大正二年十一月廿九日 再版發行
 入力::
  入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)
  入力機: Dell XPS8300
  編集機: Dell XPS8300
  入力日: 2012年07月02日

 

— posted by nitobe at 05:03 pm   commentComment [0] 

日本奥地紀行



明治11年(1878年)
横浜オリエンタルホテル(五月二十一日)から東北を経由し、函館に渡り、現在の北海道沙流郡日高町(旧北海道沙流郡門別町)まで行き、東京英国大使館(十二月十八日)へ戻るまでの旅行記である。

伊能忠敬が蝦夷を測量した78年後である。津軽海峡に汽船が運航している!
佐瑠太は現在の日高町富川(旧富川町)のことかなぁ?ああやっぱりそうだLink
平取町が出てくるが、やはり義経神社への言及がある。この町にはUFO基地「ハヨピラ」もあるのだ。
件の三厩(三馬屋)も義経伝説に関連している地名だ。
しゃあない。もう少し調べようか。

当時、日光から北は、土人の土地だったんだ。江戸も「かねやす」までだったからね。

 

— posted by nitobe at 10:10 pm   commentComment [0] 

天地明察 「犬若岬」


冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?……」 2010-09-16Link 佐藤賢一先生指摘済み

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P250L13より引用
 やはりこの大地は——地球は丸いのだ。
【中略】
当初は南側の犬若岬での観測が予定されていたのだが現実には不可能だった。波によ
る浸食が著しく、いずれ消えてなくなることになる岬である。危なっかしくて子午線
儀も設置できない。無理な設置で道具が損なわれることを避け、北側の犬吠埼にて天
測が行われた。その北極出地の結果は、
『三十五度四十二分二十七秒』

「犬若岬」という言い回しは現代にはない。「伊能忠敬の地図を読む」から引用してみよう。
====以下「伊能忠敬の地図を読む」改訂増補版初版2010/12/30 P32より引用
富士山を目標にする
犬若岬の位置(伊能中図)
富士山への測線は犬吠埼南
側の千ヵ岩(千騎ヵ岩)の
近くの犬若から出ている。
方位は申の6分半。(成田山
仏教図書館蔵)

地球の丸く見える丘展望台 犬若岬の北の
愛宕山山頂にある。 360度の見晴らしがで
きて、まさに地球の丸さが実感できる。

犬若岬 今は犬若崎と呼ばれる
場所はないが、犬吠埼の南側に
犬若という地名がある。ここに
千騎ヵ岩という岩礁があって、
その隣に犬岩に向かって突き出
た小さな岬がある。おそらくこ
こが犬若崎とか犬若鼻と言われ
ていた所である。

疑惑1:地球は丸い
  1−1: 166x年に「地球」という単語があったのか?
  1−2: 水平線が丸いと感じられる岬は数多あるのに何故ここで?
疑惑2:犬若岬
  2−1: 「伊能忠敬測量隊」が「犬若岬」に拘って9連泊もしたのは、「富士山」を観測するためである。北極出地で「犬若岬」に拘る理由は全く無い
  2−2: 166x年には「危なっかしくて・・・」だが、180x年には「伊能忠敬観測隊」は、「犬若岬」で、ちゃーんと富士山の観測を行っている。
  2−3: 「いずれ消えてなくなることになる岬」かどうかは、当時の人たちにはわからない。

犬若岬:北極出地には全く関係のない場所である。こんな所、パクっても全く無意味。盗用疑惑を濃くするだけ

 

— posted by nitobe at 01:51 am   commentComment [0] 

割円八線対数表を再現する


冲方丁殿:1661年の日本に対数表があったという根拠を示していただきたい。

規則 11: 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

というわけで、「伊能忠敬の地図を読む」改訂増補版初版2010/12/30 P28 の写真だけを頼りに、伊能忠敬の「割円八線対数表」を再現してみた。
sheet2


sheet2_v2



伊能忠敬の周天360分割、1度60分割、1分60分割で。
左側は90度から45度まで1分刻みで、右側は0度から45度まで1分刻みで。
各行の処理:
  何度何分を、度の小数表現に変換。
  excelだから、ラジアンに変換。
  江戸時代は直径がベースだったので2倍。
  excel関数でsin,cos,tanを求める。正弦、余弦、正切。まずは三線。
  それぞれの逆数で余割、正割、余切。ここまでで六線。
  1-cos、1-sinも求めておく。正矢、余矢。これで八線。(今回は使っていない)
  余割、正割、余切それぞれ常用対数を求め、10を加え、一千万倍し、小数点以下四捨五入。
  違うシートから呼び出し、NUMBERSTRING関数(モード3)で漢数字に変換。
  必要な部分以外は非表示。

80度00分から79度30分までの余割対数、正割対数、余切対数および
10度00分から10度30分までの正割対数、余割対数、正切対数の頁である。
このページだけでは「割円六線対数表」だ。

3行位比較してみたが、合っているようだ。31行全て合っているかどうかは、定かではない。2701行全部合っているかどうかは、照合するてだてがないのでグリコ。

オリジナルは、概ね右から左に向かって読むのだが、対数の数値だけは、左から右に読む。はまった。このシートは全て左から右に読む江戸時代だから「直径」をベースに考えるのと、常用対数に10を足すのがみそ。負数を嫌ったらしい。その他はexcelの常識的な技だよね。

2時間程度のやっつけ仕事なので、まだまだ改良の余地はある。下のexcelデータはさしあげますので、各自好きにして頂戴。乞誤謬指摘だが、著作権は放棄していないので、再配布する場合は「digital西行庵・新渡戸広明・作成」を明記のこと。でかいぞー、おもいぞー

6/30追記:
79度30分の余割対数(10度30分の正割対数)。オリジナル一〇七三九三六〇、再現表一〇七三九三六〇。オリジナルにも結構誤謬があるようだ。ちなみに私が、姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳「妙法蓮華経」全八巻を入力したときの誤謬率は661文字/73905文字、0.89%程度だった。

6/28追記:
規則 15: わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
申し訳ありません。ラジアン変換を間違えていました。直径ベース補正をする必要はありません。sheet2(漢数字の表)に影響はありません。お恥ずかしい。
inou_8sen.xlsx は、誤謬です。
inou_8sen_v2.xlsx をお使いください。
97-2003ユーザのあなたに、xlsを用意しました。



添付ファイル: inou_8sen_v2.xlsx  inou_8sen_v2.xls 

 

— posted by nitobe at 11:50 pm   commentComment [0] 

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