Title  台記 康治元年三月  Description 十五日戊申 令侍共射弓 西行法師來云 依行一品經 兩院以下 貴所皆下給也 不嫌料紙美惡 只可用自筆 余不輕承諾 又余問年 答曰 二十五(去々年出家、二十三) 抑西行者 本兵衞尉義清也 (左衞門大夫康清子) 以重代勇士仕法皇 自俗時入心於佛道 家富年若 心無愁 遂以遁世 人嘆美之也  Note たいき 【台記】 院政期の左大臣藤原頼長の日記。一二巻。漢文体。1136年から55年の間の記事が断続的に残存する。保元の乱の研究および宮中の儀式を知るうえで重要な史料。宇槐(うかい)記。槐記。宇治左府記。宇左記。 ふじわら-のよりなが ふぢはら— 【藤原頼長】 (1120-1156) 平安後期の廷臣。忠実の二男。左大臣。通称、悪左府・宇治左大臣。兄忠通と対抗し、父の後援を得て氏長者(うじのちようじや)となったが、鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と結んで挙兵し(保元の乱)、敗死した。和漢の才に富み、日記「台記」がある。 大辞林 第二版 台記 たいき 左大臣藤原頼長の日記。 《槐記 (かいき) 》《宇槐記》《宇治左府記》などとも呼ぶが, これらは大臣の唐名〈三台〉〈三槐〉, もしくは頼長の居所,官職に由来する。 記事は生彩に富み,深い学殖に裏打ちされて詳細かつ精確である。 1136 年 (保延 2) より 55 年 (久寿 2) までの写本が伝わるが, 中間を一部欠く。 また本記の記事を後世に抄出した《宇槐記抄》《台記抄》, および別記も伝わるが,《宇槐記抄》《台記抄》には今日散逸した本記の記事が含まれている。 東京大学史料編纂所,宮内庁書陵部, 内閣文庫,尊経閣文庫などに古写本を伝える。 《増補史料大成》《史料纂集》などに収める。 吉岡 真之 藤原頼長 ふじわらのよりなが 1120‐56 (保安 1‐保元 1) 平安後期の公縁⊿。 世に悪左府,宇治左大臣と称された。 関白忠実の次男。 母は忠実の家司藤原盛実の女で,いわば妾腹の子である。1130 年 (大治 5) 異母兄の摂政忠通の子として朝廷に出仕して以来,官位の昇進をかさね,36 年 (保延 2) 17 歳で内大臣に昇って世人を驚かせた。 またそのころから異常な熱意を学問にそそぎ, ことに儒教の経書の講究に励んで,〈日本第一の大学生 (がくしよう), 和漢の才に富む〉と評されるまでになった。 一面,朝儀・公事にも精励し,ことに47 年 (久安 3) 左大臣源有仁の没後をうけて一上 (いちのかみ) (太政官の首席) となるや, 果断な実行力をもって,朝政の刷新と朝儀の復興に努めた。 父忠実は忠通の男子がまだ幼弱なのをみて, 頼長に期待をかけ,50 年摂政を左大臣の頼長に譲るよう忠通に勧告したが,拒絶されたため,忠通を義絶し,頼長を氏長者(うじのちようじや) にした。頼長はさらに内覧の宣旨をこうむり, 同じく内覧・左大臣であった道長を範として摂関家の権威の回復を目ざした。 しかし 55 年 (久寿 2) 近衛天皇の死去を機として, 鳥羽法皇の信任を失い,さらに後白河天皇の践祚 (せんそ) により皇子の践祚の望みを断たれた崇徳上皇と手を結び, 56 年法皇の没後間もなく兵を挙げたが, 敗れて南都に逃れ,戦場でうけた重傷のため命を落とした。 その日記《台記》は,生彩に富んだ公家日記として名高い。 ⇒保元の乱 橋本 義彦  End  底本::   著名:  西行全集 第二巻   校訂:  久曾神 昇   発行者: 井上 了貞   発行所: ひたく書房   初版:  1981年02月16日 第 1刷発行  入力::   入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   入力日: 2001年03月21日  校正::   校正者:   校正日: $Id: taiki.txt,v 1.5 2019/07/09 02:30:53 saigyo Exp $