Title  萬澤村誌  Section 第十三章 十七部落  Subtitle 第二節 西行區  Description  當區も萬澤村北端の部落にして前は富士川に沿ひ北は彙志切越及 西行峠を境に富河村福士に接し西は西行山及天水を負ひ南は西行河 原桑園を隔てゝ越渡に接する區なり人家二十六戸人口一百三十四人 内男六十六人女六十八人(昭和五年十月一日國勢調査の數)なり増野 方面より流出する澤あり西行澤と云ふ此の澤の附近水田あり明治九 年前は甲州街道區内を西に貫き字澤口より西行峠に登り福士村へ降 りたるものなるか明治九年彙志切越新道開鑿と共に富士川邊に縣道 變交せり西行峠は甲斐國富士見三景の一にして其の名高く且つ名僧 西行法師此の處に棲息したりとの口傳あり西行法師は其名を佐藤義 清と云ひ藤原秀郷の後裔父を康清と稱し世々廷臣たり義清は鳥羽院 北面の武士にして文武に達せり壯年の頃妻子を捨て僧となり西行法 師と云ひ諸國行脚風水を共にし最も和歌を能くす晩年京都に居住し 七十三歳にて逝去す(詩人西行)甲斐國誌に西行坂は西行村の北の 小坂にして民戸ある處を西行村と云ふ富士川此の處に漲り東に轉ず るを西行瀧と云ふ岸上高き處に一株の松あり老大にして地を覆ひ盤 根多く露たり數百年の者なり里人の説に西行法師此の丘の上に庵を 結び栖息したりと傳ふ分明ならず西行去て後里人石像を造り此の松 の樹下に安置せり今は所在を失せり東山低く其の上に富士山現れ積 雪常に皚々たり宛も盆中に盛るが如し茲に河灘を遙眺し風景殊に勝 れたり富士の圖に前に山を置き又月を添へたるは皆此の西行坂より 望む景色なりと云ふ然あらんか云々此の大なる松は今はなし西行太 右衞門君許の古書に往古此の峠に大なる松あり幾百年を經たるを知 らず享保十二年九月火起り近村總出にて此の火を消すもやまず一晝 夜燒つづきたりとあり又深草元政上人身延行記に二十五日萬澤を立 ち坂あり馬追ふものいはく此の坂を西行坂と云ふ此の松を西行松と 申すと云ふ歌などあらんかと思ありへどもとわんよしなし以て此峠 に大なる松ありしを知るべし西行法師の和歌二首あり 甲斐か根にきつゝなれにし旅衣春雨しのく松のしたかけ 風になひく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬ我か思ひかな 又此の西行峠に明治初年前迄は壽量坊と云ふ坊舎あり安永九年西行 村縫右衞門氏身延四十七代日豐上人御入山の砌御茶の接待したるに つき坂本尊を賜りしより壽量坊を建立す後數代明治七年廢坊跡は畑 となれり又當區に大玄坊と稱し何れの時代より存在ありしや詳なら ずと雖ども文政二年十月長州吉敷郡の住人是信坊日眞及源波馬長の 兩人祖師尊躰を彫刻し茲に安置したるものなりと云ふ(西行太郎兵 衞君宅古書)後文政九年七月身延五十六代日晴上人より當坊居住大 玄坊大玄日徳上人時代大玄坊と命號すとあり其後明治七年廢坊す跡 は夜學校になしたりしが昭和二年春祖師日蓮上人元の尊躰を駿州江 尻地方より迎ひ茲に安置し又元の大玄坊とせり當區氏神は元越渡區 北組の神社内に合祭しありしが明治七年分靈今の菊屋敷へ一宇を建 立奉祭す祭神は左口明神と稱し保食命を奉祭す當區共同墓地は明治 十八年字上平に設置す西行河原桑園は元官有地なりしが昭和二年之 を拂下げ今は西行村有地となり各戸分作す此段別七段歩餘なり太右 衞門君許の舊記に享保十二年大水出で越渡と西行との間山岸へ富士 川打つけ通行ならざりしが萬澤村名主百姓代公儀へ願出で人足百七 十八人下され山麓へ新道を切り開き申候云々の記亊あり其の道今尚 存す明治四十四年九月三十日當區火災あり遠藤彦左衞門氏以北六戸 燒失せし亊あり  End  底本::   書名: 萬澤村誌   發行: 昭和七年三月一日   編輯兼發行人: 佐野 幸知  入力::   入力者: 新渡戸 廣明(nitobe@saigyo.net)   入力機: SHARP Zaurus MI-E21   編集機: IBM ThinkPad X31 2672-CBJ   入力日: 2006年07月01日  校正::   校正者:   校正日:  $Id: manzawa2.txt,v 1.5 2019/07/09 02:30:53 saigyo Exp $