Title  圓位上人古墳記  Description 西行上人の舊跡國々に多かれど、身まかり給ひし所さだかならず、いかにもして尋ね得まほしく年頃思ひすぐしつるに、或人竹河永號五一郎のいひけるには、上人終焉の地は、河内の國石川郡弘川寺と古きふみにも見え侍れば、いにし頃行きて尋ねつれど、所にも知れる人なし、いたづらに歸りさむらひき。もし志ありなば修行にことよせて、彼等のあたり、こゝかしこ日を重ねつゝ心をつくし求めなば尋ね得べしといひしかば、げにしかり。然はあれぞしきて思ひめぐらせば、是凡慮をもてはかりしるべきことにしもあらざりければ、 享保十七年壬子二月三日より始め石山寺にこもりゐて  石山やかたき心に祈りなばなにか願ひのかなはざるべき とよみて奉り、晝レ夜を不臥、七日七夜丹誠を盡して祈願し奉りしに、不思議なるかな、同六日中日にあたりし曉心もつかれてせんすべなう頭陀袋に臂さゝへて、とばかりまどろみしに、五位鷺ひとつ飛ぶと見えつるを、笠をひるがへし待ちければ、忽ち來りて羽をやすめけるをいたゞくと見て夢は跡なくさめ侍りぬ。さめて思ひ奉るに、是なん御さとしならん。されど愚かなる心にては是は悟り得がたし。猶妙智力をそへさせ給へとうちうつむき、暫し觀念しければ、一句の語あり/\と感得す。五人立路鳥立竹とつく%\とかうがへぬれば、五位鷺といふ文字に笠といふ字をさかしまにして、へん、つくり、かぶりを分ち見れば、字の頭倒まで彼の一句にたがふことなし。是を貝奉るに、行きて見るべき山のたゝずまひ、河の流、墓の有樣までまのあたり見るが如し。此時恐ろしくも有難くも、身の毛いよだちてそゞろ寒く涙とゞめがたし。殘る三夜も終り、すべて七日七夜祈願滿ちて後弘川寺に行きて寺の僧徒、所の者などあひ語らひ、案内に先立ちて、先づ本堂藥師如來を拜み、それより共に、このもかのもを尋ぬれども、塚は臺つも侍らず。如何はせんと思ふ折節、爰に弘法大師の御影堂あり。入りて尊容を拜み奉るに、尊前に佛供をてらして、西行上人の御齋としるせり。是は如何なる故ぞと問ひければ、よ人そこより上人へ手向けよとありし料にて、今朝そなへ奉るなりといへり。折もこそあれ、今日は如月十六日上人の正忌日、こゝにまうで來て、かゝる御亊にあへることよと、その世のふるごと迄思ひ出、思ひあはせて、ぬかづきながら涙落ちなんとするを、心の底にせきとゞめ、とかくまぎらはして、人々にいひけるは、我こゝに詣で來る、かりそめのことならず。西行上人終をとり給ひしは此弘川寺にて遺骸ををさめまゐらせし所なり。さるに此所に知れる人なしとよそながら聞き傳へて、いと淺ましく本意なき亊かなと思ひ煩ひて、石山寺に詣でて、かけまくも念彼觀音力を一心に頼み奉り、尊號をくりかへし唱へつゝ祈りしに大悲の御まなじり哀とや見そなはし給ひけん、あらたなる御告をかうぶり、こゝに參りぬ。されば何にても塚に似たる物はべらば出すべし。其發語にてしるべしと聞えけれども、道しるべせし人々、此等のほとりには思ひよらずと幾度も/\互にいひつれど、いやとよ是たゞごとにあらず、觀音薩〓(土十垂)の靈驗に任せて尋ね侍れば、心をしづめてといふ折しも、年十五六ばかりなる文教といへる僧、此上に行塚という物有り。經塚をいひあやまりしとなんいふ。それこそ西行上人の古づかなれどいひあやまれるにはあらず。西行塚といふべきを上を略して行塚といひしものなりと聞えもやらず、袖をぬらしければ、皆人々も打ちしをれにけり。さらば行塚に參るべしと此堂を出てみれば、我をはじめて人の數も御告にたがはず、恰も五人路に立てり、是より靈夢符合せん亊いと嬉しくて、人々に向ひ、塚の上に竹ありやといひければ、いや此あたりには竹一本も侍らず、殊に彼塚の上にはなし、/\といひもて行くを、おしかへし我詞をはなちて、忝くも大悲の御教になどか僞のさぶらふべき。我行きて見ばまさに有るべし。其竹より鳥ありて立ちなん。其時はいよ/\西行塚の疑ははるけぬものをといふを聞きて、皆々いぶかし/\と思ふおゝもちにて我が顏をつく%\と見かへりぬ。それより山のかたにあゆみ登りて見れば、夢中にたがふことなく古墳うづ高うして、前にはいにしへ有りし西行上人の遣像堂の跡とおぼしくて、數百年を經しにや、苔むせる礎の殘りて、哀淺からず。いざ/\こなたへと誘ひて、塚の頭を見あぐれば、小竹いささか生ひ出でたり。是ぞかねていひしにたがはずと指さし教へければ、御告の如く鳥鳴き立ちて虚空に飛去り失せにけり。是を見て我はいふにもさらなり。相具せし輩も身も地になげて、涙にむせかへり侍りぬ。  尋ね得て袖に涙のかゝるかな弘川寺に殘るふるづか 思へば弘川のそことも知れる人なく、幾とし波をかさねこしふる塚の苔の下にも、西行上人の秀徳はくちずしてあらはれ、末の世ながらかゝる竒瑞のおはしませし。大悲の御利益あふぎ奉れば、石山のやまと共に高く、弘誓深如海。ふして見れば鳰の海に何ぞ異ならん。  鳰の海や弘き誓のことわりは石山寺に祈りてぞ知る 臺尊三十三身の數になづらへて、一軸三十三卷の御經を筆のつたなきをもはぢず、石山寺にかきてさゝげ奉る亊、立ちかへりては恐れなきにしもあらざること、伏して願はくは、大慈大悲の御手を埀れさせ給ひて、此寸志をだに請けさせ給へ。 享保十七年壬子彌生          釋似雲禮拜   此度此古墳に印の石をたて侍るとて人にかはりて  世々を經て苔はむすとも人の名のくちぬしるしや石に殘らん 石はおのづからなる青き右の表には、圓位上人の墓、かたつかたには、西行法師の亊なりと假名まじりに書き侍りぬ。童蒙の輩も知ること安からしめむが爲なり。此石わづかにたけ二尺餘り、はゞ尺にみたざれども、立る志は輕からず。立てし人は津の國難波に住める樋口何がしなり。此人さりし頃讚州へ渡り侍りしに、其所西行上人の舊跡とて一木の松有り。此松は昔上人住み給ひて  ひさに經てわが後の世をとへよ松跡したふべき人もなき身ぞ と有りし松となん。今だに知る人稀なるを、まして行末おぼつかなし。此故を石にえり付けて建ておかまほしきとて物語りし。さなきだにかく上人の徳行をかねて有難く思ひつる人なりければ、此弘川の古墳のことを聞きて甚だよろこび願ひつゝ、石を立てさぶらひき。是彼思ひ合すれば、かりそめのことならず、一方ならぬ志と深く感じて、拙き筆をそへ侍るのみ。 享保十八年甲癸丑年二月十六日にまうでて、こぞの今日こゝに古墳を尋ね得しことを思ひ出でて  跡とひて今年もこゝにきさらぎやまた袖ぬらす望月の頃 一木の櫻をたづさへ行きて墳のほとりに植ゑ侍るとて  一本も植ゑて櫻を手向ばやわが後の世といひししるしに 折しも今朝齒一つ落ちければ、是だに結縁の爲にと、植うる木の本にそへて埋み侍りし包紙に  西に行くえにしともなれ古墳に植うる櫻も埋むおちばも 享保十九年甲寅二月十六日又詣でて  行末の春こそしらね尋ね得てみとせは塚に花まつりつる 元文四己未二月十六日 西行上人五百五十年忌に、南無阿彌陀沸の尊號を歌の上にすゑて手向け奉る。  なき人の遠き昔に成りにける詞の花は色もかはらで  むなしとは思ひながらも花にそむ心の色の誰かなからん  あくがるゝ花の色香もしばしにてとまらぬものと山風ぞ吹く  みちかへてまだ見ぬ方の吉野山花の枝折の跡やしたはん  たがはずよかねてねがひの花のもとげにきさらきぎの望月の頃  ふる塚を人とぶらはゞ五百年や五十の春に花たてまつれ 圓位上人の終焉の地は、さだかならざりしを尋ぬることの故侍りて、似雲法師、石山寺に祈り申せしに、觀音薩〓(土十垂)の威神力をもて尋ね得侍りしは、符節を合せしが如くにて侍りし。河竹の末の世にもかゝる不思議の亊侍りしは、似雲法師が誠の心、千尋の海よりも深きに感通の有りけるになん。此ことを記し侍る卷末に、予も短筆をはせ侍るものならし。  元文三年十月下澣        正三位藤實積記    實録終 右一卷は似雲師實録せしを南都一乘院宮法親王御筆を染給ひて河内國石川郡弘川寺へ似雲師奉納なしおかれし也。   弘川櫻副碑の和歌貳首 咲く花の枝な手折りそ此山にみしを心の家づとにして かりそへてあだにななしそ山柴にまじる櫻の下枝なりとも   同所に草庵を結びて 須磨明石まどより見えて住む庵の浦路につゞくかづらき山 この外に何かもとめん海山も心にかなふ宿の明暮 右以竹柏園藏本書冩以弘河寺出版本補訂畢、昭和十五年七月  End  解題 今西行と呼ばれた有名な似雲法師が、享保十七年二月、石山寺にこもり、佛に祈願し、靈夢を感得し、遂に弘河寺に於て、西行塚を發見した時の亊情を書きしるしたもので、翌十ハ年二月、十九年二月參詣の時の詠も附加せられ、又元文四年二月、西行五百五十年忌に方って詠じた六首も添加せられ、奧書に藤原實積の跋文もある。古墳記の原本は弘河寺に於て元文四年十二月燒失した爲に、原本のまゝの形を見ることは出來ないが、多少誤脱のある本が弘河寺から出板せられてゐる。又板本には南都一乘院宮法親王御筆を以て奉納した由があるが、冩本には見えず、又反對に冩本には、櫻を植ゑた時やそこに草庵を作つた時の似雲の詠が添へられてゐる。本全集はそれらを校訂して誤脱を出來る限り正した。  底本::   著名:  西行全集 第二巻   著者:     校訂:  久曾神 昇   発行者: 井上 了貞   発行所: ひたく書房   初版:  1981年02月16日 第 1刷発行  入力::   入力者: 新渡戸 広明(info@saigyo.net)   入力機: Sharp Zaurus igeti MI-P1-A   編集機: MICRON AT 改 166MHzpentium 2GbyteHDD   入力日: 2001年08月27日  校正::   校正者:   校正日: